言葉のチカラ

長いから興味がある人だけ読んでください。何の意味もない文章です。


言葉で言葉を語る試みほど無謀な行為はない。だからオレは普段、こんな話は決してしない。ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、言葉で言葉を語りきることなど直観的に不可能だとだれもが感じるだろう。

だけれど、カケラを受け取ってもらえないかと、かすかに希望を持ってあえて無謀を行なってみる。


まずは身近な例から始めたい。言葉で何かを伝えるのが上手な人と、不得手な人がいる。その違いとして一番多いとオレが感じているのが「相手の言葉で話す人」と「自分の言葉で話す人」だ。

「自分の言葉で話す人」は言葉で物事を伝えるのが下手だ。

AさんがBさんに「きれいな魚がいたんだよ」と言ったとしよう。この言葉はほとんど何も伝えていない。Aさんは実際に見た魚をイメージしている。でもBさんはBさんのセンスで想像される"きれいな魚"をイメージしてしまう。AさんとBさんは実際には何も共有していない。頭の中ではまったく違うものをイメージしている。

↓違う例で言えばこういう誤解が起こっている。

Aさんは「まる」… ○と思ってる
Bさんは「まる」… ◎と思ってる

  1. Aさんが○を見る
  2. AさんがBさんに「『まる』を見たよ」と言う
  3. Bさんは◎があったとイメージする

Aさんの"きれいな魚"という言葉は"Aさんの言葉"だ。

Aさんは何をBさんに伝えたかったのか。「きれいな魚」をBさんに見せたかったのか。「きれいな魚を見て『きれいだ』と思った自分自身の気持ちを伝えたかったのか。

「きれいな魚」をBさんに見せたかったのなら、Bさんの言葉で「きれいな魚」を表現しなきゃBさんはまったく違うイメージを持つだけだ。数、大きさ、形、色、泳ぎ方...だけれどAさんが見たそのままのイメージをBさんが持てることはない。

「『きれいだ』と思った気持ち」を伝えたいのなら、AさんとBさんが一緒に体験した出来事を基に伝えるのが一番確実だ。「去年、一緒にチューリップを見たときみたいな気持ちだった」などと言えばいい。それでもAさんの気持ちでBさんが満たされることはないけれど。

何かを伝えたいのなら、自分の持つイメージの言葉を使っても何も伝わらない。自分が伝えたいことがあって、相手の心の中にもそれがある。ならば発する言葉は相手の心の中で「伝えたいこと」を表す言葉でなくちゃならない。


言葉で何かを100%伝えることはできない。不可能だ。でも、近づくことはできる。だからこそ、言葉を尽くすことをやめてはいけない。


言葉は努力を止めたとき、無力になる。言葉は無力じゃない。言葉を無力にしているのは「理解してもらえる言葉」を使わない人々だ。


まだまだ書きたいことはある。でも本一冊になりそうな勢いだ。なので今日はここでくじけさせてください。