責任論に意味はあるか

「少年(女児)の不器用さは周囲に気付かれておらず、家庭でも学校でも少年の表現できない思いが酌み取られることはなかった」 家裁の決定要旨が地域や教育現場に触れた部分はこれだけ。「家裁が調べたことがすべてでしょうか?」。保護者の一人は疑問を投げかけ「学校の責任はどれくらいあるのでしょう」と続けた。「被害者と加害者だけの問題ではなく、クラスの状況をとらえた上で学校の責任を再考すべきだ」。保護者たちはこう口をそろえた。


事件のその後を伝える良い記事だと思います。


しかし学校の責任を明確にすることに何か意味があるでしょうか。もちろん学校に重大な過失があったとなれば保護者たちは安心できるでしょう。あれは学校のせいだった、私たちには責任はないから今までどおりでいい、となるのですから。


外野から見れば、今しなければならないのは責任を明確にすることではなく、原因の明確化と再発の防止だと思います。

保護者たちの言葉に出崎睿子校長は「教職員には人権や守秘義務の問題があるので取材に応じないよう言ったが、保護者にお願いしたことはない。どうしてそんな話になっているのか全く分からない。保護者への説明も事件翌日の6月2日にした」と反論。今後については「授業を通して人間教育をしていくしかないが、具体的にどうしていいか分からず難しい面がある。私一人で発言すべき問題ではないとも思う」と述べた。


この校長の発言は無責任だ。今こそ発言して議論を深め、みんなそれぞれが考えを深めていくべきだろう。学校の長が黙れば他の教師も黙らざるを得なくなっていく。保護者たちは沈黙する学校にますます不信感を大きくするだろう。


確かに「沈黙は金なり」かもしれないが、「雄弁は銀なり」とも続く。世俗的な意味で沈黙していただきたくない。