子猫を殺す

少し前のニュースですが、考えがまとまらなかったので今になってコメントします。

 直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。 

 ◇坂東眞砂子さん寄稿…子猫を殺す時、自分も殺している

 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。
子猫殺し告白:坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府−今日の話題:MSN毎日インタラクティブ

「陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。」と避妊手術を否定しているが、生まれてきたばかりの子猫の命そのものを絶つという行為を肯定できる理屈がわからない。いや、肯定はしていないのか。避妊手術を必要悪として認める態度と同じく、子猫を仕方なく殺していると自己弁明しているだけか。

「生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。」と自分を擁護しているが、「じゃ、死ねば?」と思ってしまう。自分を満たすために猫を飼い、猫を愛撫することで自分を慰め、避妊手術を肯定したくないゆえに子猫を産ませ、自分の能力では飼えない子猫は崖から放り投げて殺す。殺される子猫は魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫していないのだろうか。

上で引用した毎日新聞に寄稿された文章を読んでも、子猫を殺す理屈がさっぱり理解できません。どうやら坂東眞砂子さんの心の中では「今飼っている猫」と「生まれてきた子猫」の命には差があり、「生まれてきた子猫」の命よりも「今飼っている猫」の陰のう、あるいは子宮の方が重いようだ。


子猫が産まれたら今飼っている猫を崖から放り投げるという選択肢はないようだ。やはり愛情を注ぎ続けてきたという歴史が命の重みに価値をつけているのだろうか。

命を重さに差があるのは確かだ。

地面を這っているアリ一匹と、人一人の命の重さは同じだろうか。

断崖絶壁の上で右手に恋人が、左手に母親がぶら下がっているとき、二人を引き上げられないならどちらの手を離すだろうか。

死んだニワトリはなぜおいしそうなのだろうか。


坂東眞砂子さんをむやみに批判する気はない。ただ、寄稿された文章からは避妊手術をせず産まれてきた子猫を殺すという行為を正当化する材料はなんら見当たらないし、避妊手術がペットを飼う上の必要悪、そして現実解として最適だという社会的合意はなんら揺らがない。産まれてきた子猫を殺すという行為からくる罪悪感に耐えられないから行われる逃避が避妊手術であり、飼い主の自己満足にすぎないとしても、産まれてきてしまった命を絶つという行為の方がはるかに罪が重いように思う。


猫を飼わないという選択肢もまたないようだ。自分が生きていくのに今飼っている猫は必要なのだろう。

ペットを飼うという行為自体がしょせん傲慢な自己満足である、自覚せよと坂東眞砂子さんは訴えているのだろうか。


人と人ですら、お互いに何かを縛りあい、妥協しあい、生きている。人とペットでもそれは同じだろう。