一神教と多神教?

データ取りの最中でやることがなかったのでブログ散策してたらちょっとひっかかったエントリがあったのでコメント。長文です。すみません。


「神道と言う名の多神教(日本人は元来は無宗教ではない。)」

以前からよく一神教多神教を対比させる論法を見かけるたびに思っていたことがあるので、これを機会に書いておきます。

オレも一神教多神教を対立軸として捉えていた時期があったけれど、今はまったく意味がないことだと思っています。

引用しているブログには誤解もかなり含まれているので、それを訂正しつつ、自分の意見を書いてみたい。

あなたも正しいけど 私も正しいとする宗教が 多神教です。

そんなことはありません。というか他者への寛容と多神教は関係がない。一神教でも他の神を認める宗教はあります。また多神教でも他の神を認めない宗教はあります。

もしかして唯一神教(monotheism)のことを「一神教」と言っているのかな。以降は唯一神教のことを指しているという前提で進めます。

一神教は良くない。『耐える 忍ぶ あきらめる』の精神を基本とする。『耐えて 忍んで 諦めた』人々(奴隷や農奴や労働者)の精神構造を カタストロフィーとしての『差別と偏見と排斥』の温床に変えてしまう。それが一神教の正体なのです。

どこからこんな論法が出てきたのか、どの一神教のことを指しているのか不明だけれど、これはただの偏見。

一神教の裏には ○か×かの みのもんた式の白黒付けたがる幼稚な精神構造がすぐ誕生します。スケープゴート魔女狩り)への欲求も 一神教から発生します。

一神教自体が危険なのではなく、「○か×か」とか「一神教多神教か」のような単純な二元論が危険なのです。(しかし確かに唯一神教のもとでは暴走した二元論は広がりやすい。)

時の権力者達が巧みに一神教を庶民に広めて それを上手に利用して 国家を統一してきたのが 欧米の文明です。

あらゆる民族・文化がせめぎ合ってきた歴史を持つ欧米ではわかりやすく広まりやすい単純な一神教を必要としたのです。むしろそうでなければ国家としてまとめられなかったでしょう。多神教は理解しにくいため、同じ民族・文化の中でしか広まっていくことができない傾向があります。

さらに指摘したいのは「権力者」というものを「悪」として捉えている点。まるで権力者が自分の権威を広げるためだけに一神教を利用しているようですが、国家の安定=平和、そして国民の安全なのです。誰かが人々をまとめなければなりませんし、人々をまとめていくからにはみんなの平和と安全と衣食住の確保を目指すのが当然でしょう。その過程で文化も歴史も違う人々をまとめていくために一神教を広めていくのは当然の手段でしょう。そして人々をまとめることができた人を権力者と呼び、まとまっている人達とその地域を国家と呼んだ。ここにはなんら非難されるところはないと思います。

ユダヤ教叱り カソリックプロテスタントを問わず キリスト教しかり 仏教やイスラム教も 然りです。。(ヒンズー教は二神教の対立宗教だったような記憶が。。。。もちろんヒンズーは寛容の多神教ではない。)

仏教は一神教じゃありません。そもそも他の宗教が持つような崇める神を持っていません。(だからわざわざ仏と呼ぶ)

ヒンズー教多神教ですが、他の神を認める寛容さを持ってません。




このブログの主張はよくある落とし穴にハマっている好例なので取り上げさせていただきました。

「他者への寛容さ」の大事さを主張しながら一神教に対しての寛容さを見失っているのです。

そして一神教多神教の対比がなぜ無意味なのか。どちらも必要とされたから存在していて、それぞれが違う役割を担っているからです。


神道が寛容さを持ち合わせた宗教だと思われているようですが、それは違うと思います。神道は言葉によらない宗教のため、他の神を融合しやすいという性質を持っているだけで、信仰として他の神を認める寛容さを持っているわけではない。無関心なだけです。過去には廃仏毀釈なんてのもありましたし。*1


いろんな宗教があり、それぞれが良いところを持っています。そもそも宗教論に善悪という価値観は通用しません。なにせほとんどの場合、善悪を決めるのが宗教自身なのですから。むしろ宗教論に善悪を持ち出せば、どんな宗教の組み合わせだろうと対立します。


良い宗教、悪い宗教があるのではなく、良い信仰、悪い信仰があるだけではないでしょうか。


それぞれの存在を認めること。坦々と、そう在れればいいですね。

*1:あれは政治的に利用されただけだとか、信仰を誤ったのだという言い逃れは通じません。それを言えば他の宗教だって同じこと言います。