コミュニケーションは不快である

他者から知識や情報を得るということは、ほぼ受け手自身の否定となる部分を持つ。


和気あいあいの雰囲気もいい。しかしそれを維持することが目的になってしまえば、それは即、言論統制につながる。「私の意見はA氏とは違うが、言わないでおこう」といった類の気遣いが横行するし、そうでなくとも相手を不快にさせない配慮が働く。気遣いや配慮は伝えるべき主題を薄める効果しかない。また気遣いや配慮を含めるくらいなら黙ってろと思うのが人情でもある。自分のケツを守ろうと腰が引けては伝わるものも伝わらない。


他者に何かを伝えようとするとき、どう解釈するのかを相手に委ねる覚悟が必要だ。誤解されるときもあるだろうし、機嫌を損ねるだけに終わるときもある。


新たな知識を得るということは知らなかった自分を認めるということでもある。ここには謙虚さが求められる。受け手にはこの謙虚さが必ず必要なのだ。


人と人の間には深い谷がある。共感とは誤解なのだろうか。すべての人達は意志疎通ができていると勘違いしているだけなのだろうか。


などなどということを考えてみた。ぜひ反論が欲しいところである。